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INTERVIEWインタビュー

地域の中で家族や仲間とあたりまえに暮らす

2021.09.08

ニセコ生活の家 |

長谷川 奈穂子

取材日:2021.03.12

Photo:土谷 貞雄

ニセコ町の有島地区にある「ニセコ生活の家」は、地域の中で「障がい」を持つ人々が、「健常者」と同じように、家族や仲間、友人らと「あたりまえ」に暮らせるようになることを目指し設立された地域活動や交流を行う場所(地域活動支援センター)だ。生活の家の理事長を務める長谷川奈穂子(はせがわ なほこ)さんは、生活の家の設立と継続的な運営に向けて熱意を持って取り組んできた人の一人だ。障がいを持つ人々の気持ちと生活に長年寄り添ってきた長谷川さんにお話を伺った。

生活の家の成り立ち

障がいを持つ若者たちが通う「ニセコ生活の家」(組織名:特定非営利活動法人 ニセコ生活の家)は、1997年11月に現在の場所での運営が開始された。元々、「生活の家」は1983年に札幌市で設立され、市内の借家や一軒家を使って運営されていたが、ニセコ町にはより継続的に運営していけるような条件が揃っていたこと、また温かく迎え入れてくれる雰囲気があったことから、移転することを決めた。

「生活の家」は、障がいを持つ人々の生きる選択肢が閉ざされていく社会に対して、立ち向かう動きのなかで設立されたものだ。1970〜80年代にかけて障がいを持つ人々の尊厳が奪われるような事件が頻発したことを受けて、障がい者に対する社会の関心が高まると同時に、障がい者がより「管理」されるようになった。当時、義務教育を終えた障がい者は一般的な高校には通えず、(当時の考え方であった)障がいの重さの程度によって、養護学校に通うか、地域から隔離された施設に収容されるかのどちらかしか選択肢がなかった。

このように障がいを持つ子どもたちの選択肢が狭まるなか、保護者たちが中心となり、障がいを持っていても家族や仲間、友人らと「あたりまえ」に暮らせるような場所をつくることを目指す動きが始まった。「札幌・ともに育つ教育を進める会」を組織の主な母体とし、障がい児の就学運動や関連する活動のメンバーも母体の一部として巻き込みながら、活動を行った。最終的には、その場所として札幌に生活の家を設立することとなった。

ニセコ生活の家の建築模型

生活の家での暮らしと活動

生活の家が1997年に札幌からニセコに移ると、札幌の施設を利用していた若者たちとその家族もニセコ町に引っ越してきた。生活の家の施設の大きな窓からは羊蹄山を望むことができる。「ニセコはとても景色が良い場所。ここに住んでいるだけでストレス発散できますよね」と長谷川さん。また、施設内は利用する若者たちの視線がなるべく交差しないような動線となるよう設計されていたり、一休みできるような腰かけが廊下に設置されているなど、障がいを持つ人が心地よく感じられるような工夫が散りばめられている。

ちょっと一休みしたい時に使える腰かけ

生活の家では、施設を利用する若者たちが、町の行事への参加や製品づくり、資源回収やバザー、創作活動などを通じて、地域と関わるさまざまな活動を行っている。その中の一つとして、藍染の製品づくりがある。巾着やマスク、ハンドバッグなどを藍染めし、ニセコビュープラザや旧でんぷん工場などで販売している。今後はこうした活動のほか、学童や幼児センターの子どもたちとの交流の機会もつくっていきたいそうだ。

施設を利用する若者たちが藍染商品の製造に用いる染料

生活の家の若者たちが藍染めした巾着

生活の家の運営資金は、町からの助成や保護者からの提供、一般の人からの寄付、事業収入など、さまざまな人たちの思いによって賄われている。継続的な運営を行っていくうえで、収入を得るため事業活動も行っているが、生活の家の経済状況は常に厳しい。しかし、労働生産性を追求するやり方は、障がいを持っている人々にはなじまない。未だ解決策が見つかっていない、難しい課題だ。

長谷川さんのこれまで

長谷川さんは、生活の家の理事長を務めるようになってから現在で4年ほど経つ。長谷川さんはもともと、特別支援学級の教員として働いていた。当時、障がい児の教育制度が変わりはじめ、選択肢が閉ざされていく社会の動きがあり、長谷川さんが担当していた学級の生徒たちにも大きく影響することが予想されたため、危機感を感じていた。

同時期に、視覚障がいを持つ人が普通学校に入れるよう後押しする運動があり、長谷川さんはそうした人たちと共に就学運動を行うようになった。この運動に参加するなかで、さまざまな団体や活動のメンバーらと、生活の家の設立に向けて動いていくこととなる。

長年の経験のなかで、長谷川さんは障がいを持つ人たちを「障がい者」として見ることがなくなった。長く接していると、「〇〇さんは△△が苦手な人」といった認識になるのだそうだ。障がいを持つ人と、いわゆる「健常者」の間の壁をどうやったらなくすことができるのか尋ねてみると、「障がいを持つ人たちと関わることと、相手が何を求めているか想像力を働かせることだと思います」と語ってくれた。

生活の家の窓から見える羊蹄山

変わらないポリシーと生活の家のこれから

「長年活動を行う中でいろいろな変化があったが、私たちのポリシーは変わってはいけないと感じている」と長谷川さん。長谷川さんをはじめとした生活の家の活動メンバーらは、「障がい児だからこういう生活をする、というのではなく、そのままの生活を継続すること、障がいを持つ人々が、地域の中で家族や仲間と当たり前の生活をすること」を大切にしている。

生活の家の今後の活動や運営については、とにかく「やってみないと分からない」と感じている。「見通しつけてから始める、ということはあまりやったことがないかもしれないですね」と長谷川さん。札幌からニセコに生活の家を移転する際、「とんでもないことをする集団だ、若くもないのに田舎に移住して、年をとったらどうするの」と、いわゆる福祉の専門家から批判された。その際には、「長生きするから大丈夫ですって答えました」と明るく話す。そこにはいつも「やらなければいけない」という自身の強い使命感があった。

「保護者の方々の決して揺るがない思い、そして若者たちの存在そのものが、生活の家の長い活動の核になっています。」と、長谷川さんは穏やかではあるが力強く語ってくれた。厳しい経済状況の中でも、こうして生活の家の取り組みを継続してこられた力の源はそこにあるのだ。

取材を終えて

長谷川さんや生活の家のメンバーらは、これからも変わらないポリシーを持ちながら、障がいを持つ若者たちが「あたりまえ」に暮らせるようになることを目指し活動していく。「かかわること」、そして「相手が何を求めているか想像力を働かせること」は、人と人とのコミュニケーションにおいて「あたりまえ」に行われることだ。こうした行動を周囲の人々がほんの少し意識して実践することで、生活の家が目指す暮らしの実現を後押しできるのかもしれない。

プロフィール

Photo:土谷 貞雄

ニセコ生活の家

長谷川 奈穂子

「特定非営利活動法人ニセコ生活の家」理事長。養護教育専門の教員として働いていた頃、障がいを持つ子どもの保護者や障がい者を支援するさまざまな組織・人々とともに就学運動に参加。生活の家の設立に向けた活動に携わり始める。1997年に、当時札幌にあった生活の家をニセコ町に移転。障がいを持つ人々が地域の中で家族や仲間、友人らと「あたりまえ」に暮らせるようになることを目指し、保護者の方々やスタッフとともに生活の家の運営・活動を行っている。

文責:佐々木 綾香

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